東京都港区の泉岳寺と言えば、赤穂浪士の墓がある事で全国にその名を知られている。
忠臣蔵のあらすじを振り返りながら泉岳寺を訪問しました。
忠臣蔵ってどんなお話?
毎年舞台や映画、テレビや歌舞伎で上演される忠臣蔵。
日本人から長~く愛され続けてているあらすじとはどんなものでしょうか。
忠臣蔵の主な登場人物
浅野内匠頭
(あさのたくみのかみなが)
吉良上野介
(きらこうずのすけ)
大石内蔵助
(おおいしくらのすけ)
赤穂浪士
(あこうろうし)
(播州赤穂浅野家の浪士四十七名)
忠臣蔵のあらすじ
吉良上野介は、江戸城の中で浅野内匠頭に儀式の礼儀を教えるという
言ってみたら先生の役割の人。
ですがなぜか吉良は、浅野内匠頭に対して正しいことは何も教えようとしない。
そんな意地悪が続き、浅野内匠頭は、恥をかかされることになる。
我慢をしていたのですが、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまい、吉良上野介を切りつけてしまう。
切りつけたと言っても吉良上野介は、額に切り傷が残っただけ。
タイミングの悪いことに喧嘩をしてしまった場所が江戸城の廊下だった。
しかもその日は、大切な儀式がある日だったという理由で切りつけた浅野内匠頭は・・・
何とその日のうちに切腹をしろ!
という話になる。
切りつけた事件…
いやいや、小競り合いの喧嘩からわずか6時間後には切腹。
ですが、なぜか喧嘩相手の吉良上野介には、全くのお咎めなし。
切腹になった浅野内匠頭は、播磨赤穂藩の藩主で(今の兵庫県赤穂市・相生市・上郡町のあたり)浅野家の大名。
浅野内匠頭の切腹は当然、それだけで終わらない。
浅野家は「お家断絶」も言いわたされてしまう。
遺族がみんな、家来がみんな路頭に迷うてしまう。
赤穂藩筆頭老中だった大石内蔵助が、必死になって喧嘩相手の吉良上野介にも処分を・・・
と懇願をする。
そして、浅野家のお家再興のために努力されるのですが願いはかなわず。
そして時を経て、四十七人の赤穂浪士たちが、仇を討つために吉良家に討ち入りするという話。
江戸の世論も
「ちょっと・・・喧嘩は両成敗!?」
「武士ならやっぱりかたき討ちするべき!?」
ってなっていました。
いろんな人が赤穂浪士の味方になってかたき討ちに力を貸す・・・
というストーリー。
この恩師を想う心と、一つの事を貫く姿、討ち入りを成し遂げて切腹をしていく・・・
討ち入り後の赤穂浪士の足取りと泉岳寺との関わり
討ち入りわ終わった後、無事に吉良邸を出発した赤穂浪士四十七士の皆さんの足取りはどうだったのか。
ちまたでは、有名な
「赤穂引き上げルート」
この足取りとはどのようなものだったのか。
吉良邸を出発
墨田区両国3-13-9
今は本所松坂町公園という公園になっています。
屋敷の中庭には吉良上野介の首を洗った井戸があります。
回行院で休憩を取ろうとするが…。
墨田区両国2-8-10
赤穂浪士が、休憩を取ろうと尋ねたのだが、門を閉められてしまったと言われるところ。
鼠小僧のお墓がある場所としても知られています。
両国橋で休憩
回行院で休息が出来なかったので、両国橋の左詰のところで休憩されました。
休憩だけで両国橋は渡らず、隅田川を南下して泉岳寺に向かったのです。
吉良邸から泉岳寺に向かうのに一番近いルートは、両国橋を渡って行くルート。
避けて行ったのには理由がありました。
何でも人通りも多いし、幕府関係者が通るなどいざこざ起きたら困る。
それで別のルートを選んのだそうです。
永代橋を渡る
永代橋まできて、ようやく赤穂浪士達は隅田川を渡ります。
仙台藩上屋敷で休息
仙台藩上屋敷の場面は、「元禄忠臣蔵」という歌舞伎の演目にもなっています。
江戸幕府の目付(簡単に言うと、見張り役みたいな人)の仙石伯耆守(せんごくほうきのかみ)の屋敷に招かれます。
そこで、大石内蔵助を中心に赤穂浪士47人が討ち入りの経緯を話をする。
この話の中で、赤穂浪士は吉良上野介以外の人は誰一人殺していないという事がわかりました。
ここが元禄忠臣蔵の舞台になっているところ。
現在、この地は日本テレビタワーになっており、北玄関横には「仙台藩上屋敷跡」の案内板があります。
泉岳寺に到着
5時間半以上かかる道のり。
これが赤穂浪士の凱旋コース。
「赤穂引き上げルート」
実際に歩いてみるツアーもありますよ。
泉岳寺で赤穂浪士のお墓へお参り
泉岳寺には、赤穂浪士が使えた浅野内匠頭とその奥様のお墓があります。
浅野内匠頭と同じ敷地、ホントに近くに赤穂浪士たちの魂が眠っています。
最近は、外国からの観光客もたくさん起こしです。
それぞれの赤穂浪士のお墓に気軽にお線香をあげる事も出来ます。
泉岳寺へのアクセス
東京都港区高輪2-11-1